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浜松風力発電所の風車と鉱山跡地
(電子国土より)
幾度となく取り上げている浜松風力発電所。浜松市北区引佐いなさ町から同区滝沢町にかけての尾根に、10機の風車が建つ。最大総発電量は20MW(2万kW)。一般家庭の町ひとつ分ぐらいは賄える能力を持っている。全高は120mもあるため、浜名湖対岸や遠州灘近くからも見える。鳶ノ巣山秋葉山からも確認できた。

このあたり一帯は石灰岩質の山が多く、鍾乳洞も多数あるという。中でも東海地方最大を謳う竜ヶ岩洞りゅうがしどうは有名で、観光洞として営業している。
採石場も多く、風車列近隣にも2ヶ所存在する。1号機南には良眺望の立須たちすがあり、その下部には岩肌が階段状になった部分がある。また3~4号機間は少し間が空いているが、ここも遠方から眺めると岩場が見える。前者は三岳鉱山跡地、後者は都田鉱山跡地で、いずれも現在は住友大阪セメント(株)が所有している。

現代を象徴する風力発電と、モニュメント的存在でもある鉱山跡。そして有無を言わせず貫く、新東名・三岳山トンネル(旧称:浜松トンネル)。対比の面白さに惹かれ、鉱山跡について検索してみたもののヒットせず。無いものは仕方ないので、自分でまとめてみた。
なお、各資料間での食い違いがいくらか見られた。その場合は、複数の資料にあるもの、若しくは状況的にそれ相当と考えられるものを採用した。

冒頭の写真は、電子国土サイトのオルソ画像の最新版。地図を表示させて、[空中写真を「見る」]から見られる。写っている内容から、平成21年(2009)のゴールデンウィーク前後の平日、9:30頃に撮影されたものと思われる。





三岳鉱山跡を望む
三岳鉱山は、昭和28年(1953)に愛知県蒲郡の三嶽みたけ鉱山(有)により開山された。

護岸材、石積石材などを製造しており、一時期は小野田セメント田原工場(愛知県)へ、セメント原料としても出荷していた。その運搬には二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)が使われた。開山間もなく、近くに磐城セメント(現・住友大阪セメント)浜松工場ができたが、取引はなかったという。昭和37年(1962)ごろの記事には、舗装用砕石が主な出荷物で、業績は良く、増員増産しているとある。

昭和40年(1965)ごろ、住友セメント(現・住友大阪セメント)から、磐城化工が使っていた嵩山すせ鉱山との交換話が持ち込まれた。地理的要因などから応諾したことで、三岳鉱山は住友セメントの所有となった。ただし結局、採掘は行われなかったという。もし行われていれば、立須は現存していなかったかもしれない。

三嶽鉱山は、この嵩山と同時期に開発した奥山鉱山で、現在も操業を続けている。奥山鉱山では、閉山後に産廃最終処理場にする話があり、反対運動が起こっている。
三嶽の名称は、山から名を取っている。現名は三岳山だが、三嶽城跡、三嶽神社などとあるように、もとは三嶽と書いていたと思われる。

冒頭の写真は三岳鉱山跡の遠景。2号機のブレードがわずかに見えるその下の岩塊が立須。
以下の写真、1枚目は、最下部にある平坦地から見上げたもの。2枚目は、採鉱部頂上から見下ろしたところ。写真中央に小さく見える灰色部分が、1枚目を撮影した平坦地。落ちたらひとたまりもない。3枚目は中腹から。斜部と垂直部が交互に、階段状になっている。4枚目は周辺の様子。浸食の激しい石灰岩だらけで、道らしい道はない。ソールのしっかりした靴と丈夫な手袋をしていかないと痛い目に遭う。写真はまだ「歩ける」マシな部分。
カタツムリの墓場があったり、プランクトン化石っぽいものも見かける。


下から見上げる

頂部から見下ろす

中腹から眺める

比較的歩きやすい部分

化石?





都田鉱山跡を望む
都田鉱山は、昭和16年(1941)ごろ、鈴木岩水石灰工場などが開発した。東洋産業(元・三河セメント)を経て、昭和28年(1953)ごろに磐城セメントに売却された。

当時の磐城セメントでは、子会社である常盤礦業が採鉱を受け持っており、都田鉱山もこの管轄になったと思われる。浜松工場竣工直後の昭和29年10月(1954)には、セメント原料採鉱の直営化がなされ、白岩鉱山などは本体直轄となった。しかし都田鉱山は、石灰類やタンカル製造向けのため対象外になり、磐城化工に社名変更した後もこの管轄下にあった。昭和39年3月(1964)、磐城化工は改称したばかりの住友セメント本体に吸収される。これにより当鉱山は、住友セメント浜松工場運転課採鉱係の担当となった。その後間もない、昭和40年9月(1965)に閉山した。
現在は「石切り場」と呼ばれ、滝沢町側には案内板もある。

なお、以前石切り場に出向いた際に見つけた建屋について、住友大阪セメントより回答をいただいた。当時はエア駆動の削岩機が使われており、建屋はそのコンプレッサー室、内部のタンクはそのレシーバタンクであろう、とのこと。

鉱石搬出について、次のような記述があった。
「採石は尾根伝いに下り、鷲沢の谷を越え、天白山西を通る2kmのケーブルで二俣線・都田駅まで運ばれた。ケーブルには、1.5mの舟が60個付けられ、1時間で往復。日量90tを運んだ。」
ところが都田駅から鉱山跡までは、直線でも3km以上ある。運搬ルートについては、結局よく判らなかった。ちなみに「天白山」は、一般的な地図にはないが、都田中学校北の162mほどのピークがそれだと思われる。

冒頭の写真は、都田鉱山跡の遠景。新都田などから良く見える。
以下の写真、1枚目は採鉱場北側頂部から眺めたもの。四角形に採鉱されているのが判る。2枚目は、鉱石運搬の様子。都田風土記に掲載されている。3枚目は、コンプレッサー室廃墟の外観。


頂部から見下ろす

採石ケーブル輸送の様子
(都田風土記より)
住友セメントのバラック
コンプレッサー室廃墟
ブログ記事より)





1975~76の浜松工場近辺
(電子国土より)
両鉱山には、磐城(住友)セメント浜松工場が深く関わっている。これとその周辺の社会情勢についても触れてみる。

太平洋戦争後、日本はひどい電力不足に見舞われていた。国策により電源開発(株)が設立され、複数の大規模水力発電所が計画される。佐久間ダム、秋葉ダムもそのひとつで、これら建設用セメントの供給を、磐城セメントが専属的に担うことになった。

建設中の浜松工場
(湖西・引佐・浜名の100年より)
当時、磐城セメントは、合併した助六石灰工業(岐阜県本巣村)跡に工場建設を計画していた。ところが、ダム建設への供給が決まったため計画を変更。静岡県金指町ほか、いくつかの候補の中から静岡県井伊谷村を選び、浜松工場を建てることにした。

白岩鉱山から採鉱し、エンドレス鉱車(トロッコ)で工場まで運搬。製品は引き込み線で二俣線・金指駅まで運び、二俣線、東海道線、飯田線を経由して佐久間ダム建設現場まで運ばれた。秋葉ダムへは、ダンプ機能のない専用の貨物自動車が用いられた。
両ダム本体向けの40万トン全量、および関連施設向け60万トンのうちの7割、全体の8割を供給した。

ちなみに飯田線は、佐久間ダム湖による水没のため架け替えられている。その際に水窪経由の迂回路線になったらしい。Wikipediaのほか、「飯田線 水没」などで検索すると、廃道、廃線系のすごい人たちのサイトに出会える。

冒頭の写真は、電子国土のオルソ画像。撮影は昭和50年(1975)~翌年の冬。昭和51年(1976)1月下旬10:20ごろではないかと想像する。右手にある大きな建物群が浜松工場。キルンが4本、煙突が2本見える。工場北側より、山を迂回するように西方へ伸びるのが、白岩鉱山へ向かうエンドレス鉱車。工場東側より南方へ伸びる複数の点線は、金指駅へ向かう引き込み線と貨車。ところどころに見える規則正しい住宅街は、住友セメントの社宅。
2枚目は建設中の写真。「湖西・引佐・浜名の100年」に掲載。昭和30年とあるが、昭和28年 (1953)のものと思われる。
下の写真は、キルンが3本に増設された昭和30年代初頭と、4本になった昭和40年代以降の、遠景と配置図。遠景は工場北西から撮っている。


昭和30年代の浜松工場外観
(住友セメント八十年史より)

昭和40年代以降の浜松工場外観
(住友セメント八十年史より)

昭和30年7月の浜松工場配置図
(住友セメント八十年史より)

昭和40年代以降の浜松工場配置図
(住友セメント八十年史より)


以下に年表にまとめる。

1868 M4.7 廃藩置県。風車尾根周辺の三岳村、川名村、滝沢村など静岡県の管轄に。
1868 M4.11 府県合併。一帯は浜松県の管轄に。
1870 M6.- 官営で、国産セメントの開発始まる。後の深川工作分局。
1873 M9.8 府県が再編され、一帯は再び静岡県の管轄に。
1878 M14.5 山口県西須恵村小野田に「セメント製造会社」設立。後の小野田セメント製造、現・太平洋セメント。
1879 M15.2 東洋組、設立。愛知県田原村に工場。
1880 M16.4 深川工作分局を払下。後の浅野セメント、現・太平洋セメント。
1889 M22.4 都田村に滝沢村などが、井伊谷村に三岳村などが、伊平村に川名村などが編入。金指村が町制。
1889 M22.9 東洋組、三河セメントに改称。
1894 M27.7 日清戦争、開戦(~M28.3)。
1904 M37.2 日露戦争、開戦(~M38.9)。
1907 M40.11 磐城セメント、設立。
1908 M41.9 磐城セメント四倉工業所(後に四倉工場、福島県四倉町)、竣工。
1923 T12.9 関東大震災。
1924 T13.- 秋葉セメント計画。岩水寺~嵩山などで採掘、尾奈北部で製造、船で出荷。
1924 T13.10 葛生石灰工業、設立。関東大震災復興の目的。現・泉工業に関連。
1934 S9.- 三河セメント田原工場で、国内初のレポール式採用。
1934 S9.5 東洋セメント工業、設立。
1935 S10.6 岐阜セメント、設立。岐阜県本巣村。
1937 S12.7 日中戦争、開戦。
1939 S14.12 岐阜セメント、設備一式を満州に移設し解散。跡地に助六石灰工業を設立。
1949 S15.9 東洋産業、三河セメントを吸収。
1941 S16.- 鈴木岩水石灰工場などが、都田鉱山を開発。後に東洋産業が所有。
1941 S16.4 磐城セメントが、葛生石灰工業、他1社を吸収。
1941 S16.12 太平洋戦争、開戦。
1943 S18.6 宇部興産(現・宇部三菱セメント)、東洋セメント工業小倉工場を買収。
1943 S18.7 小野田セメント製造、東洋産業田原工場を買収。
1945 S20.9 太平洋戦争(日中戦争内包)、終戦。
1946 S21.5 磐城セメントから常盤礦業を分離設立。採鉱などの子会社。現・泉工業に関連。
1946 S21.6 元・三河セメント社長が、三河セメント産業を設立。
1947 S22.2 東洋セメント工業、復活。宇部興産が小倉工場を返還。
1948 S23.8 三河セメント産業、静岡県金指町に工場建設を計画、富士セメントに改称。
1949 S24.8 東洋セメント工業、東洋セメントに改称。
1950 S25.11 磐城セメントが、東洋セメント、富士セメント、助六石灰工業を吸収。
1951 S26.- 磐城セメント、岐阜県本巣村に新工場計画。
1952 S27.- 磐城セメント、本巣村計画を変更し、静岡県井伊谷村に工場建設を決定。
1952 S27.9 電源開発(株)、設立。佐久間ダム、秋葉ダムに磐城セメントの専属納入決定。
1953 S28.- 三嶽鉱山(有)、三岳鉱山を開発。
1953 S28.- 磐城セメント(系列)、都田鉱山を獲得。
1953 S28.1 磐城セメント、浜松工場、起工。
1953 S28.4 佐久間ダム、秋葉ダム、着工。
1953 S28.4 井伊谷村に金指町を編入、引佐町に改称。
1953 S28.6 磐城セメント、白岩鉱山の開発に着手。
1953 S28.8 磐城セメント、日本軽金属(株)より、白岩、栃窪、二俣の石灰石鉱区および炭カル営業を譲受。
1953 S28.9 昭和の大合併、始まる。
1954 S29.6 磐城セメント白岩鉱山、出鉱開始。初の大型機械による機械化された鉱山。
1954 S29.7 磐城セメント浜松工場、竣工。国内初の大型レポール式。キルン2基、煙突1本。
1954 S29.10 磐城セメント、常盤礦業からセメント原料採鉱部門を分離吸収。
1955 S30.- 自民党vs社会党の55年体制始まる。
1955 S30.3 浜松市に都田村を編入。同市都田町、鷲沢町、滝沢町に。
1955 S30.5 引佐町に伊平村など編入。風車列の尾根は引佐町と浜松市の境界に。
1955 S30.7 磐城セメント浜松工場、3号レポールキルン増設。煙突は1本のまま。
1956 S31.8 常盤礦業、磐城化工に改称。生産メーカに特化。
1956 S31.10 佐久間ダム、完成。
1958 S33.6 秋葉ダム。完成。
1958 S33.7 川崎セメント、設立。
1959 S34.9 伊勢湾台風。災害復旧向け出荷要請により、竣工前の川崎セメントより緊急出荷。
1960 S35.1 川崎セメント大垣工場(岐阜県本巣村)、竣工。
1960 S35.3 磐城セメントが川崎セメントを吸収。大垣工場は岐阜工場と改称。
1962 S37.4 磐城セメント、福島県田村郡に田村工場、起工。
1962 S37.6 住友系の福島セメント、設立。住友単独による業界進出計画の代わりに田村工場を継承。
1962 S37.12 住友石炭鉱業から、秋芳鉱山(山口県)などを住友石灰工業として分離。
1963 S38.3 磐城セメント、福島セメントと住友石灰工業を吸収。
1963 S38.6 磐城セメント田村工場、竣工。
1963 S38.10 磐城セメント、住友セメントに改称。住友グループに入る。
1964 S39.1 住友セメント、秋芳鉱山の開発に着手。
1964 S39.4 住友セメント、磐城化工を吸収。嵩山鉱山、都田鉱山などは浜松工場管轄に。
1964 S39.10 住友セメント嵩山鉱山、閉山。
1964 S40.- 住友セメントの嵩山鉱山と、三嶽鉱山の三岳鉱山を交換。
1965 S40.2 住友セメント白岩鉱山栃窪鉱床の開発に着手。
1965 S40.6 住友セメント秋芳鉱山、長距離ベルトコンベアによる輸送開始。
1965 S40.8 住友セメント浜松工場、4号レポールキルン増設。煙突は2本に増える。
1965 S40.9 住友セメント都田鉱山、閉山。
1966 S41.- 住友セメント白岩鉱山栃窪鉱床、ベンチカット造成、大型機械導入。
1971 S46.4 泉石灰工業(現・泉工業)、設立。住友セメントのプラスター関連を分離。
1973 S48.3 住友セメント栃窪鉱床から白岩へ、ベルトコンベア輸送に切り替え。
1973 S48.- 第一次オイルショック。
1976 S51.8 東洋セメント、再設立。住友セメント小倉工場を分離。
1977 S52.8 いなさ化工(現・イナサス)など6興産会社設立。住友セメントの合理化対策の退職者の受け皿。
1979 S54.- 第二次オイルショック。
1983 S58.1 住友セメント、経営危機により「サバイバル作戦」策定。工場閉鎖を含む。
1983 S58.3 住友セメント、創業工場の四倉工場を休止(S61.9 閉鎖)。
1984 S59.3 東洋セメント休止(S59.11 解散)。
1984 S59.8 住友セメント浜松工場を休止(S59.11 閉鎖)。白岩鉱山、閉山。栃窪鉱区はいなさ化工が使用。
1985 S60.3 住友セメント浜松工場、四倉工場の一部、東洋セメントなどのキルン廃棄。
1993 H5.8 新党ブーム。55年体制終わる。
1994 H6.10 住友セメントと大阪セメントが合併、住友大阪セメントに改称。
1999 H11.- 平成の大合併、始まる。
2000 H12.3 住友大阪セメント、住友系列に入ったきっかけの田村工場、閉鎖。
2005 H17.7 浜松市に引佐町など2市8町1村が編入。風車尾根も佐久間ダムも浜松市に。
2007 H19.4 浜松市が政令指定都市に。
2008 H20.- 浜松風力発電所、起工。
2009 H21.8 浜松風力発電所、10機設置完了。
2010 H22.4 浜松風力発電所、運転開始。
2011 H23.3 東日本大震災。
2012 H24.4 新東名(旧称・第二東名)、静岡県内開通予定。


情報ソース(50音順)

 【協力】
住友大阪セメント株式会社 IR広報グループ
浜松市立中央図書館 郷土資料室
三嶽鉱山有限会社

 【書籍】(基本的に浜松市立図書館蔵)
引佐町史 下巻
湖西・引佐・浜名の100年
住友大阪セメント百年史(住友大阪セメント蔵)
住友セメント八十年史
東海展望 1962年2月号
日本軽金属三十年史
都田風土記
都田村郷土誌

 【Web】
泉工業株式会社
株式会社イナサス
株式会社新エネルギー技術研究所(Reetech)
住友大阪セメント株式会社
三嶽鉱山有限会社
Wikipedia
 引佐郡
 宇部三菱セメント
 住友大阪セメント
 太平洋セメント

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